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共働きなのに、なぜ夫は「家事を手伝う」と言うのか?その一言が、夫婦関係を確実に冷やす「隠れた地雷」だった

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夫婦の溝を深める「隠れた地雷」の正体

共働きなのに、夫がさらっと「家事を手伝うよ」なんて言った瞬間、心の中でカチッとスイッチが入っちゃうこと、ない? 「は? 手伝うって何?」って、怒りを通り越して虚無感すら覚える、あの感情。私だけじゃないよね、きっと。

だって、私たち、朝から晩まで同じように働いて、同じように疲れてるわけじゃん。それなのに、なぜか「家事」って、最初から妻の持ち物で、夫はそこを「手伝ってあげる」っていうスタンスなの? その一言が、夫婦間の公平感を根底から揺るがす「隠れた地雷」だって、気づいてる?

この「手伝う」って言葉の裏には、「家事は本来君の仕事」っていう、現代の共働き家庭にはそぐわない、古〜い価値観が透けて見える。そして、その価値観こそが、知らず知らずのうちに夫婦関係をギスギスさせて、修復不能な溝を深くしてる原因なんだよね。

今回の記事では、この「手伝う」発言がなぜ危険なのか、そしてどうしたら夫婦がお互いを尊重し合える関係になれるのか、一緒に探っていく。このモヤモヤ、もう終わりにしようよ。

「手伝う」が夫婦仲を壊すメカニズム

ありがとう、が言えなくなる日の裏側

あの「手伝う」発言が、なぜこれほどまでに私たちの神経を逆撫でするのか。その根っこには、共働きであるにも関わらず、家事育児の「責任」が最初から妻にある、という見えない前提があるからだよね。夫はあくまで「協力者」であり、主体ではない。そのスタンスが、あらゆる場面で妻を消耗させていく。

私が以前、取材で話を聞いた陽菜さん(仮名)も、まさにその渦中にいた一人だった。彼女はIT企業でプロジェクトマネージャーを務める、まさにバリキャリ。夫の慎吾さん(仮名)も同じくらい稼いでいて、表向きは理想的な共働き夫婦に見えた。でも、彼女の顔にはいつも疲労の色が浮かんでいた。

「もう、心底うんざりなんです」と、陽菜さんはカフェでテーブルに突っ伏しそうな勢いで話してくれた。「慎吾、悪い人じゃないんです。むしろ、優しい方だと思います。でも、その優しさが、私を蝕んでるんです」。

陽菜さんと慎吾さんは、5歳と2歳の子どもを持つ。朝は陽菜さんが子どもたちの準備と朝食をほぼ一人でこなし、慌ただしく出社。慎吾さんはその間に自分の身支度を済ませ、子どもたちを保育園に送っていく。ここまでは「分担」が成立しているように見える。

問題は、帰宅後からだった。

陽菜さんがヘトヘトになって職場から戻ると、リビングには子どもたちが散らかしたおもちゃが散乱し、慎吾さんはソファでスマホをいじっている。「おかえりー、疲れたね」と声をかけてくる慎吾さん。その言葉に、陽菜さんはまず微かなイラつきを覚える。「あなたも疲れてるのはわかるけど、なんで私より先にリラックスしてるの?」という疑問符が、無意識に心に浮かぶ。

陽菜さんがバッグを置き、手洗いをして、まずリビングのおもちゃを片付け始める。その隣で、慎吾さんはまだスマホを見ている。しばらくして、陽菜さんが夕食の準備を始めようとすると、ようやく慎吾さんが重い腰を上げる。「あ、何か手伝おうか?」

この「何か手伝おうか?」が、陽菜さんにとっての「隠れた地雷」だった。「毎回これなんです。『何か』って、何よ? 自分で考えて行動してよ、って心の中で叫びたくなります」。彼女はそう言って、深くため息をついた。

ある日、陽菜さんは慎吾さんに「夕食の買い物、お願いできる?」と頼んでみた。慎吾さんは快く引き受けてくれた。しかし、彼が買ってきたのは、陽菜さんが考えていたメニューには合わない食材ばかり。なぜなら、陽菜さんは「何を作るか」まで具体的に伝えていなかったから。「自分で考えてきてくれる、と勝手に期待した私が馬鹿でした」。

結局、陽菜さんはその食材に合わせて急遽献立を変更し、夕食を作り上げた。慎吾さんは「買い物手伝ったよ」と満足げな顔。「ありがとう」とは言ったものの、陽菜さんの心には虚しさが募るばかりだった。

さらに、寝かしつけの時。「今日は僕が子どもたちと寝室行くよ」と慎吾さん。陽菜さんは「助かる!」と思った。しかし、数分後、リビングに戻ってきた慎吾さんは「いやー、上の子、全然寝ないね。陽菜、バトンタッチ」と言って、再びソファに座ってしまったのだ。「手伝ってくれた」ことに感謝はするけれど、それは「途中で投げ出された」家事のバトンを渡されたに過ぎない。結局、陽菜さんが両方を寝かしつけることに。

この積み重ねが、陽菜さんにとって「ありがとう」という言葉を自然に口にできなくさせていった。「彼がやってくれること一つ一つに、私が指示を出したり、裏でフォローしたりする手間がかかるんです。結局、タスクの『管理』と『最終責任』は私にあるまま。それって、本当の意味で『手伝ってくれてる』って言えるのかなって」。

慎吾さんは「自分は家事を手伝っている」という認識で、陽菜さんの負担を減らしているつもりだっただろう。しかし、陽菜さんの心の奥底では、夫に対する不公平感、不満、そして「なぜ私ばかりがすべてをマネジメントしなければならないのか」という怒りが、じわじわと蓄積されていった。夫婦の会話は事務連絡が増え、休日は別々に過ごす時間が増えたという。かつてのような温かい会話も、スキンシップも、少しずつ失われていっている、と陽菜さんは静かに語った。

「手伝う」という言葉が、どれほど深くて見えにくい溝を夫婦間に作ってしまうのか。陽菜さんのエピソードは、その具体的な姿を私たちに突きつける。これは、単なる言葉の問題じゃない。その裏にある、根本的な意識のズレ、そしてそれが生み出す不公平感が、共働き夫婦の関係を確実に冷やしていく「隠れた地雷」なのだ。

「手伝う」を「私達の仕事」に変えるたった一つの意識改革

「家事主体」は誰?その問いを夫婦で共有する

陽菜さんの話は、多くの共働き夫婦にとって「あるある」だと感じたかもしれない。夫が悪気なく発した「手伝う」が、なぜ妻の心を深く傷つけ、二人の間に壁を作るのか。それは、家事・育児という生活運営の「主体」が、いまだに妻にある、という前提を変えられないままでいるからだ。

夫が「手伝う」と言った時、妻が本当に求めているのは、指示出しや管理の負担をさらに増やされることではない。むしろ、その「管理責任」から解放されたいと願っている。主体が自分にある限り、夫がいくら「手伝って」くれても、タスクが完了するまでの思考プロセス、つまり「名もなき家事」は妻の脳内で行われ続ける。

「冷蔵庫に何があるか」「今日の晩ご飯はどうするか」「子どもの着るものは足りているか」「明日の保育園の準備は完璧か」。これらすべてを思考し、計画し、必要に応じて指示を出すのは、常に妻だ。夫が「手伝う」と行動に移すまでには、妻の思考と指示が必要不可欠。これでは、「手伝う」という行為自体が、妻の負担を増やす結果にすらなりかねない。

この悪循環を断ち切るために、私たち共働き夫婦が本当に必要なのは、たった一つの意識改革だ。

それは、家事・育児を「夫婦共通のプロジェクト」として捉え直すこと。

「手伝う」という言葉を、夫婦の辞書から削除する。そして、「これは、私たち二人の生活を回すための、共同の仕事だ」と、根本から認識を改めること。

夫が「何か手伝おうか?」と言ってきたら、「いいえ、これは『あなたの仕事』でもあるし、『私たちの仕事』よ」と、心の中で呟いてほしい。そして、具体的に「今、これをしてほしい」と指示するのではなく、一歩踏み込んで「じゃあ、あなたが担当できることは何?」と問いかけてみる。

もちろん、最初からすべてがスムーズにいくわけではない。長年染み付いた習慣や意識を変えるのは、簡単なことじゃない。でも、そこを乗り越えない限り、共働き夫婦の真のパートナーシップは築けない。

大切なのは、「どちらか一方が負担を負う」という発想を捨てること。そして、「二人でどうすればこのプロジェクトを円滑に進められるか」という視点を持つこと。

夕食の買い物一つにしても、「今夜の献立は〇〇だから、これとこれを買ってきて」と指示するのではなく、「今夜のメニュー、何にする?私がメインを作るから、あなたは副菜の材料と飲み物を買ってきてくれる?」と、二人で役割を分担する。子どもの寝かしつけも、「今日はお風呂まで私が担当するから、寝かしつけはあなたが最後までお願いね」と、一つのタスクを最後まで責任を持って担当してもらう。

主体的に関わることで、夫もまた「名もなき家事」の存在に気づき、生活全体を俯瞰する視点を持てるようになる。そして、妻は「指示出し」という見えない負担から解放され、心からの「ありがとう」を自然に伝えられるようになるはずだ。

「手伝う」という言葉が消えた時、夫婦の間に新たな、そして本当の意味での「協力」が生まれる。それは、二人の関係を確実に温め、共働きライフを豊かにするための、最強の解決策となるだろう。

さあ、今日から「手伝う」を「私達の仕事」にアップデートしよう。

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